上訴権放棄・上訴の取下げ
日本は三審制を採っているので、第一審、第二審判決に対しては不服の申立ができ、第一審判決に対する不服の申立を控訴、第二審判決に対する不服の申立を上告と呼んでいる。控訴と上告を合わせて「上訴」と呼んでいる。
第一審判決が実刑判決であったものの、控訴しても勝算が薄い場合には、上訴権を放棄してしまうことがしばしば行われる。通常であれば、判決から2週間は上訴期間であるため、判決は確定しない。上訴権を放棄すると、その分、判決の確定が早まり、服役の開始も早まるから、出所も早くなる、というわけである。
これと似た制度に、上訴の取下げと言われるものがある。これは、いったんは控訴なり上告をした上で、後日、これを取りやめるというものである。控訴審、上告審の係属中は、受刑者ではなく未決勾留者として扱われるので、面会等の制限がその分少ないとか、執行猶予期間が満了するのを狙って、判決自体には特に不服がなくとも、戦術的に上訴をするということはしばしば行われており、そのこと自体は違法でも何でもない。
さて、死刑判決、無期懲役または無期禁錮の判決については、上訴権放棄はできないと規定されている。上訴権放棄によって被告人に生じるメリットは上記のようなものである一方で、死刑や無期懲役については、上訴権を放棄して早く確定させるメリットは通常ないと考えられる上、判決結果が重大であることから、軽率な判断や一時の感情等から安易に上訴を放棄することがないようにする必要があるため、と理解されている。
さて、死刑判決に対する控訴の取下げが問題となった事件が、近年発生した。これについて、過去の裁判例も参照しながら、少し検討してみたい。
被告人Yは、平成27年、当時中学生であった男女2名を殺害したとして、殺人罪の公訴事実で起訴された。Yは、被害者の1名については、殺意を否定して傷害致死罪にとどまると主張し、もう1名については、何らかの体調不良により死亡したとして、殺害行為を否定した。また、犯行当時は心神耗弱の状態にあったとして、責任能力を争った。第一審判決(大阪地判平成30年12月19日平27(わ)3997号 ・ 平27(わ)5261号)は、被告人の主張をいずれも否定し、死刑判決を言い渡した。これに対して、弁護人は即日、被告人は平成30年12月31日に控訴を申し立てた。控訴審では2名の国選弁護人が選任され、国選弁護人から、3人目の国選弁護人を追加で選任するよう申し入れがなされ、裁判所がその当否を検討していた矢先である令和元年5月18日に、被告人が控訴の取下げを行ったというものである。
被告人が取下げに至る経緯についてはやや不可解な点が見られる。後記の大阪高決令和元年12月17日平31(う)126号によれば、拘置所におけるボールペンの返却を巡って職員と口論になり、そのことが原因で懲罰の対象になると思ってパニックになり、控訴の取下げを行った旨認定されている。
弁護人は、被告人は「精神障害ないし性格特性の影響を受けて、行為の意義ないし結果を理解し、自己の権利を守る能力が欠けた状態でなされたものであり、また、真意に基づくものでもないから無効である」と主張して、控訴の取下げの効力を争った。
大阪高決令和元年12月17日平31(う)126号は、「本件控訴取下げの経緯は、通常あり得ない、常識では考え難いものといってよい」としたものの、「このような軽率極まる視野の狭い目先のことしか考えない態度は、被告人の性格特性に根差すものとも考えられるが、弁護人から今般提出された精神科の医師らの意見書を参照しても、このような性格特性そのものをもって直ちに、被告人が精神の障害により、行為の結果を理解する能力を欠き、自己の権利を守る能力が著しく制約されていたとみるのは困難である。」とした。
しかし、他方で、「極めて重大な結果をもたらす本件控訴取下げに至る経緯としては、余りといえば余りの軽率さであり、本件控訴取下げに際して、被告人がその法的帰結を忘却していたか、あるいは、少なくとも明確に意識していなかったのではないかと疑わざるを得ないと思われる。このような疑いは、本件控訴取下げの効力に一定の疑念を生じさせる」とした上で、「本件控訴取下げを有効なものとし、1審死刑判決に対する被告人の不服に耳を貸すことなく、今ここで直ちにこれを確定させてしまうことには、強い違和感と深い躊躇を覚えるものである。」として、結論としては控訴取下げを無効とし、控訴審の手続を続けると結論づけたのである。
これに対して、検察官が異議申し立てをしたところ、異議審である大阪高決令和 2年 3月16日令元(け)62号は、被告人に精神障害が認められるといった証拠はなく、原決定のような理由のみで控訴の取下げを無効とするのは根拠不十分として、原決定を取消し、審理を差し戻した。このため、控訴の取下げの効力についてさらなる検討が続けられている。もっとも、被告人は令和2年3月24日付で再び控訴の取下書を提出しており、弁護人はこちらについても無効を主張している。ただ、5月19日の時点では、正式な控訴取下げとして受理されておらず、現時点でどういう取扱になっているのかは不明である。
控訴の取下げの効力に関する先例としては、最決平成7年6月28日刑集49巻6号785頁がある。同裁判例は、5人に対する殺人事件などで死刑判決を受けた被告人が控訴した後、「もう助からないから、控訴をやめる。」、「最近はイライラして仕方がないので、いっそ取り下げてしまいたい。」などの発言を繰り返すようになり、平成二年三月には、拘置所職員に対し、「電波で音が入ってきてうるさい。生き地獄、つらい。早く確定して死にたい。」などと訴え、さらに、同年五月ころからは、「『世界で一番強い人』が透明になって部屋に入ってきた。」、「Sは助からないと『世界で一番強い人』が言った。」などと、「世界で一番強い人」に仮託した発言が頻発するようになった。その後、弁護人が請求した精神鑑定を拒否し、自ら控訴を取り下げたというものである。最高裁は、「死刑判決に対する上訴取下げは、上訴による不服申立ての道を自ら閉ざして死刑判決を確定させるという重大な法律効果を伴うものであるから、死刑判決の言渡しを受けた被告人が、その判決に不服があるのに、死刑判決宣告の衝撃及び公判審理の重圧に伴う精神的苦痛によって拘禁反応等の精神障害を生じ、その影響下において、その苦痛から逃れることを目的として上訴を取り下げた場合には、その上訴取下げは無効と解するのが相当である。」との一般論を示した上で、「申立人は、一審の死刑判決に不服があり、無罪となることを希望していたにもかかわらず、右判決の衝撃及び公判審理の重圧に伴う精神的苦痛により、拘禁反応としての「世界で一番強い人」から魔法をかけられ苦しめられているという妄想様観念を生じ、その影響下において、いわば八方ふさがりの状態で、助かる見込みがないと思い詰め、その精神的苦痛から逃れることを目的として、本件控訴取下げに至ったものと認められるのであって、申立人は、本件控訴取下げ時において、自己の権利を守る能力を著しく制限されていたものというべきであるから、本件控訴取下げは無効と認めるのが相当である。」として取下げを無効と判断した。
本件は、平成7年決定の事案と比較すると、拘禁反応等の精神障害が明確に疑われるとまでは言いがたいようにも思われるものの、原決定も指摘するように、ボールペンの返却を巡る口論から死刑判決に対する控訴の取下げを行うという思考過程はいかにも不可解であり、通常の精神状態になかったことを示唆するには十分であると思われる。そして、死刑判決という極めて重大な結果をもたらす判決を確定させてしまうという法的効果にも鑑みると、その取下げの効力については慎重に検討することが求められているといえる。これは上訴審で結果が変わる可能性がどのくらいあるか、ということとは関係しない。世論では、被告人Yを巡る一連のやり取りについて、死刑判決を先延ばしするための悪あがきであるとして非難する論調が見られるが、死刑が見込まれる事件の手続保障を手厚くすることは当然であり、「どうせ死刑なのだから、さっさと死ね」というのであれば、突き詰めればその場で処刑した方がよいということになりかねない。ちなみに平成7年決定の事案は、平成16年に最高裁で上告が棄却され、死刑判決が確定しており、平成19年に死刑が執行されている。
その他のコラム
ノラネコ弁護士直伝刑事弁護Ⅰ捜査弁護 発売のお知らせ
ノラネコ弁護士直伝刑事弁護Ⅰ 捜査弁護 kindleでついに発売! 従来の刑事弁護のキラキラした理想論に正面からケンカを売る問題作爆誕! 購入は以下の表紙画像をクリックしてください。 X(Twitter)共有&フォローお願いします! Tweet Follow @mizuno_ryo_law お問い合わせは、LINE友だち追加が便利! 事務所ホームページ https...
【SSR来る】初接見遅延と福岡県警を提訴 当番弁護士、交通権侵害を主張【当番弁護士】
X(Twitter)共有&フォローお願いします! Tweet Follow @mizuno_ryo_law お問い合わせは、LINE友だち追加が便利! 事務所ホームページ https://mizunolaw.web.fc2.com/index.html 刑事事件特設サイト https://mfuklocriminaldiffence.com/ 医療事件特設サイト ht...
非監護親による子どもの連れ去りと未成年者略取罪
ネット上で、子どもの連れ去りと未成年者略取罪について、激しい誤解があるようである。今回は、誤解の大きな最判平成17年12月 6日刑集59巻10号1901頁について、原文に当たりながら検討してみたい。 1 原判決及びその是認する第1審判決並びに記録によれば,本件の事実関係は以下のとおりであると認められる。 (1) 被告人は,別居中の妻であるBが養育している長男C(当時2歳)を連れ去ることを企て,平成14年...
続報 持続化給付金詐欺 の判決まとめ14 100件突破 持続化給付金判例百選なるか
持続化給付金
はじめに 持続化給付金の不正受給について、一般の方や、全国で同種事案の弁護人をされる先生方の参考になるよう、持続化給付金の判決について、情報収集を行い、分析を続けている。前回の記事から、さらにいくつかの判決に関する情報を入手した。 これまでの過去記事は以下をご覧いただきたい。 続報 持続化給付金詐欺 の判決まとめ13 大型事件の傾向未だ見えず 続報 持続化給付金詐欺 の判決まとめ12 新たな展開 続報 持...
第1回公判期日後の保釈に対する検察官抗告
弁護士になってから、勾留請求却下や、第1回公判期日前の保釈許可決定に対して、検察官が準抗告をしてきたことは数えるほどしかない。その事案も、器物損壊といいながら実際にはストーカーであるとか、共犯者が相当数いる詐欺事件で比較的早期に保釈が認められた事案なので、検察官はかなり慎重に準抗告するかどうかを検討しているものだと思っていた。 しかし、第1回公判期日後の保釈許可決定(当然、第1回公判期日前では保釈が通らなかった事案)について...





